《宮沢昭を偲ぶ会 “TOKYO TUC”》

                          2000.1.14     

 ライブスポット“TOKYO TUC”は広い音楽領域をカバーするライブや、様々なイベントを行っている。宮沢昭を偲ぶ会が、TUCで行われるとの情報を得たのが去年12月の初めであった。11月後半、名古屋在住の中川氏より地元名古屋でも宮沢さんのメモリアルが未だ漠としている状況下、わずかに水面下で内田修氏や渡辺貞夫氏が動いているとの話であった。そうした矢先のニュースで“よかった”と思った。TOKYO TUCは、JR神田駅から78分岩本町にあり地下一階店内は、正方形のスペースで、当日テーブルと椅子をキッチリ並べると約150名位収容できる状態であった。通常時は、各テーブルごとの余裕をもたせたセッテイングで50〜60名位の様である。午後2時過ぎに訪れると入り口左側の壁沿いに、内田修氏、宮沢夫人及び関係者と思しき方々がおられた。ステージ最前列のピアノとなり鍵盤の見える所に場所を定めた。参加メンバーは、宮沢夫人、内田修、稲葉国光、弘勢憲二、中牟礼貞則、守新治、後藤芳子、渡辺貞夫、ジョージ川口、池田芳夫、植松孝夫、佐藤允彦、稲垣次郎、峰厚介、市川秀男、望月英明、力武誠、今田勝、鈴木勲、沢田駿吾、原田忠幸、渋谷毅、宇山恭介、桜井郁雄、宮沢昭一、鈴木昌宏、上野尊子、尾田悟、水橋孝、村井洋介、川嶋哲郎、太田ヒトシの総勢32名。宮沢昭のためにこれだけの人達が集まった。様々な組み合わせに依る、熱いセッションが、3時〜8時までの5時間に渡って繰広げられた。参加ミュージシャンによる宮沢昭との係わり合いと、エピソードが語られ、今進行している宮沢昭の録音に依る足跡をたどっている関係上、それぞれの話が大変興味深くまた首肯することも多かった。以下、各セッションの内容及びエピソードを報告しておきたい。 ステージに内田修氏が登場され、開会の辞があった。司会は佐藤充彦がつとめ、当日のインタビュアーピアニスト、11のセッションをスムーズに展開させる準備等々、正には八面六臂の大活躍で、軽妙なトークや対応は、本セッションの成就に大きな寄与をした。

 セッション(1)稲葉国光(b)、中牟礼貞則(g)、弘勢憲二(p)、守新治(d)に依るカルテットで“ゼア・イズ・ノーグレター・ラブ”が奏された。稲葉国光は、再起した宮沢昭をささえ、中牟礼貞則は、様々なセッションを通じての付き合いがあるが、東宝レコードのマイナス・ワンシリーズ8枚(教則レコード)が残されていおり、弘勢憲二は、小津昌彦ジャズプラザのレギュラーとして、80年代中頃から90年代初めまで全国ツアーも含め盛勢な活動を展開させ、その熱いプレイは、宮沢昭を大いに触発し、カルテットの重要なメンバーであった。守新治は、釣り仲間として宮沢昭から釣師の雅号「磯秀」(きしゅう)を付けて貰った。ちなみに宮沢昭は「渓秀」という雅号である。 

 セッション(2)前記カルテットにボーカルの後藤芳子が加わり、“スマイル”を唄う。後藤芳子は、19歳の時に宮沢昭と出会い、テナー奏者及びその音楽性に大きな感銘を受けた。ジャズ・ボーカル一筋に歩んで来た後藤芳子のルーツがこうした音楽的及び人格的な出会いから発したと思われる。

 セッション(3)渡辺貞夫(as),植松孝夫(ts)、佐藤允彦(p)、池田芳夫(b)、ジョージ川口(ds)のクインテットで“シークレト・ラブ”、“チュニジアの夜”の2曲が演奏された。ジョージ川口は1953年結成したビック・フォー、50年代日本のジャズを語る時欠かせない存在であり、我々の思考をはるかに超えたジャズをとりまく環境があった様である。 このカルテットに宮沢昭は、しばしば客演しており、レコードも残されている。60年代前半の2年間ビックフォーに実際在籍していたこともあった。当時の人気絶頂のスリーピーに比して、ミュージシャンズ・ミュージシャン的存在である宮沢昭、そうしたかつてのシーンを思い起こす様な話し振りであった。渡辺貞夫はモカンボセッション秋吉敏子コージ・クインテット時代など宮沢昭とは最も古くからの付き合いがあり、近寄りがたい外見とは裏腹に優しく繊細な精神の持ち主であることを怖い言い方のエピソードを交えて話してくれた。植松孝夫は、ある演歌のレコードディングで出会うその時は宮沢昭の存在を知らなかった。4人のテナー奏者の4番手として控えていたがレコーディング進行中に宮沢昭がソロをとるべきパートを植松孝夫が吹いた。“俺はこうしたのは好きではないのでお前が吹け“、あの時の人が宮沢昭だったのかと気がついたのは大分時間が経過してからだった、との楽しい話を聞かせてくれた。佐藤充彦は、慶応の学生時代に出会い、コードに厳しい人だった様で、間違いをよく指摘され、宮沢昭から良く教えを受けていた事が、現在活動できる基盤となっているその話であった。宮沢昭は、ジャズピアニストとして守安祥太郎を第一に推し、守安亡きあと佐藤允彦を評価していたのは、数々のアルバムを見て納得するところである。

 セッション(4)稲垣次郎に依るトーク。現在プレイしているのは、ウィンドプレイヤーズのみであり企画やプロデュースに携わっている様である。宮沢昭とはかつて何度か一緒に仕事をし、テナー奏者として自分との比較において隔絶した印象があり、出来るだけ一緒に仕事をしたくなかったとの話であった。宮沢昭のテナーがいかに傑出していたかを証する言葉だと思った。

 セッション(5)峰厚介(ts),植松孝夫(ts),市川秀男(p)、望月英明(b)、力武誠(ds)2テナーのクインテットによって”ステラ・バイ・スターライト“、”グリーンドルフィン・ストリート“の2曲演奏される。峰厚介は宮沢昭から大きな影響を受けている。現在、宮沢昭の楽器が峰の手元にあり、積年の疲れを癒す様にコンディションを調整、修理が必要な部分もあるようである。市川秀男も、様々なセッションでプレイして来た事及び、ジョージ大塚トリオの一員として宮沢昭のリーダー作「NOW THE TIME」(タクト67)への参加等、係わって来た。望月英明は、地元名古屋で最後期の宮沢昭カルテットのメンバーとして活動、言葉少ないが感無量の心境であったにちがいない。

 セッション(6)渡辺貞夫(as)、原田忠幸(bs)、沢田駿吾(g)、今田勝(p)、鈴木勲(b)、守新治(ds)セックステットによる“ソニー・ムーン・フォー・トイ”とバラード“エブリシング・ハップン・トウ・ミー”の2曲。原田忠幸は、ライブなどで共演した機会は少ないが、レコーディングでよく一緒になった様である。優しい人柄、音楽的教えもよくして頂いたと感謝の言葉があった。沢田駿吾は、古くからの付き合いで音楽理論に長けた厳しい姿勢の印象を話されていた。レコーディングもコロンビア盤モカンボセッションの再会セッションである「ハンプトン・ホーズ・ジャズセッション」(68)などが残されている。八木正生のグループによるヘレン・メリルのセッション(69)などが残されている。今田勝は、先にも触れた東宝レコードの教則レコードのレコーディングで一緒になった。全8枚宮沢昭は短いながら良いソロを展開していた様である。鈴木勲は、ニッカー・ボッカー姿で登場、色々世話になったとの短いコメントがある。再起した81年、宮沢昭を迎えてレコーディングしたいとの思いにかられ「スリークッション」(キングパドルフォイール)で若手の逸材達(宮之上貴昭、土井一郎)を迎えて録音した充実作がある。60年代前半、ライブで何度か共演し、以降ジョージ川口のビックフォーで2年位共演した事があると言う。こうした宮沢昭の係わりを振り返っていたのではないかと思われた。

 セッション(7)渋谷毅(p)、宇山恭平(g)、桜井郁男(b)、宮沢昭一(ds)このメンバーで“アロー・トギャザー”、“ボディ・アンド・ソウル”渋谷毅は、70年代ギターの宇山恭平も加えたコンボで、神田にキャバレー『お若いです』で、宮沢昭と一緒に仕事をした話があった。宮沢昭のプレイしている時はカーテンがかかっていたそうである。初めて聞くエピソードだった、随分いろいろな仕事をしたのだと言った感概に耽る。ご子息の宮沢昭一氏から2つの楽しいエピソードが紹介された。昭一氏の学生時代、試験勉強で夜更けまで勉強していると、トイレに起きた宮沢昭が「体に悪いからやめろ」と一晩に何度も諭された。また、釣りの名人であった宮沢昭は、町中で車の掃除で使用する刷毛の中に気に入った羽根があると昭一氏を促してその羽根を所望した様である。セッションを佳境に入って来て、楽しさ溢れたリラックスしたムードが全体に浸透してきた感じである。

 セッション8 鈴木宏昌(p)、桜井郁雄(b)、守新治(ds)このトリオでH・ハンコックのオリジナル“ドルフィンダンス”が演奏される。鈴木昌宏は、70年代ブルーコーツピアニストとして入団どこで宮沢昭に出会った話がある。そして、ステージにボーカルの上野尊子が登場、“ザ・ベリー・ソウト・オブ・ユー”を情感こめて唄う。小津昌彦ジャズプラザ、宮沢昭カルテットと一緒に九州大分でのセッションの話があった。そこで宮沢昭と親しく話しをしたり、散歩をしたりした思い出を披露してくれた。上野尊子は先の後藤芳子にも言えるが真にボーカルと呼べる数少ない歌手であり、地道な活躍を通し熱心なファンから一目置く存在として評価されている。井坂鉱氏一連のプロデュース作品はどれも素晴らしい。

 セッション9 太田ヒトシ(p)、望月英明(b)、宮沢昭一(ds)、宮沢昭カルテット最晩年のリズムセクション、緊張感のある“オール・サ・シング・ユアー”と“ナウザ・タイム”の2曲から奏された。1992年12月4日名古屋のライブスポットでのセッションで一緒になり、この若いピアニストを(30歳前後か?)宮沢昭は励ましながらセッションを行った様である。

 セッション10 尾田悟(ts)、渋谷毅(p)、宇山恭平(g)、水橋孝(b)、村井洋介(ds)このクインテットで“コットンテイル”、“ゼア・イズ・ノーグレター・ラブ”の2曲。尾田悟は宮沢昭で同年“オレ”、‘オマエ“の間柄でスタイルの違いを超えた関係がうかがえて。ドラムスの村井洋介は小津昌彦の弟子としてバンドボーイ時宮沢昭を知っていた様である。ステージにご子息、昭一氏にうながされて宮沢夫人が今日集まってくれたミュージシャンやファンの方々へ感謝の言葉があった。

 セッション11 川嶋哲郎(ts)、佐藤充彦(p)、稲葉国光(b)、池田芳夫(b)、力武誠人(ds)このカルテットで宮沢昭のオリジナル2曲が演奏される。虹鱒、マイ・ピッコロここでリズムセクションが変わる。渋谷毅(p)桜井郁雄(b)、宮沢昭一(ds)このカルテットで、内田夫人捧げられた“チューン・フォー・テイ”3曲とも大変素晴らしかった。テナーの川嶋哲郎は、宮沢昭の弟子でありレコードも殆ど手元にあり、日々研鑚している様で、その圧倒的プレイが感動的で、宮沢昭の音楽的な遺産が川嶋哲郎のプレイに継承されていることを認知することが出来、こうした音楽的な繋がりをみるにつけ、オランダの歴史家ホイジンガの言葉を思い出された。「死と誕生とはその歩調を一にしているのであった。古い文化の諸形態が死滅する。その時、その土壌に新しい文化が養分を吸って、やがて花を咲かせる。」

(「中世の秋」) 

 当日川嶋哲郎は、午前中にこの『TUC』に来ていた。誰よりも早かった。三々五々集まって来るミュージシャンを迎えて、前記したセッションを見届け、宮沢昭との関係を反芻し、テンションを高めていたにちがいない。宮沢昭の弟子としての自分を弁えたマインドと行動、これからの時代を担うに足るミュージシャンであると思った。全部のセッションが終了し、内田修氏によって開会の辞があった。長時間のセッションをねぎらい宮沢昭のエピソードを話された。阿川泰子が一時ジャズ・ジャーナリズムから顰蹙を買った時、宮沢昭は「この人は自分のものをもっている。これから大成する」と言い「自分でよければ喜んで伴奏させて頂く」との言葉をかけられた。阿川泰子はその言葉に大いに励まされ、現在の地位を築いたのだった。名古屋のヤマハのコンサートで宮沢昭のバックで唄ったことがあったが、泣き出して唄にならなかったとか・・・・ また、浅川マキがあるオーディションで落ち、国に帰るときに、宮沢昭が「続けて唄うべきだ」との言葉で思いとどまり、その後独自の世界を作り上げた。 

 宮沢昭の“白鳥の歌”がこの浅川マキプロデュース『野百合』であったことを考えると、その人間関係の素晴らしさが垣間見えてくるようだ。

 今日参加されたミュージシャンの方々の今後の活躍を期待すると同時に、こうしたボーダレスで集うセッションが“偲ぶ会”だけでなく、時々行って欲しいものである。そうしたことによって日本のジャズはもっと色彩感豊かになり活気に満ちたものになっていくだろうと思われる。

 なお、セッション終了ご、店内でジャズ・ジャーナリストに三澤氏と会い、去年プロデュースした名古屋のビックバンド“アンダー・グランド・オーケストラ”のCDが大変巣晴らしかったことを伝える。また、去年KJFCのコンサートに来てくれた、日本のジャズに詳しい篠原嬢と内田修氏に面談することが出来KJFC“GROOVY”創刊号から19号まで及び『TORU KONISHI A-LIFE』をお渡ししする。ご子息の宮沢昭一氏ともお話させて頂き、今KJFCが宮沢昭を特集していることを伝え、後日レジュメ等お届けすることを約したことを報告して起きたいと思う。

                         2001年1月28日 S・H